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日付のない便り

日々のとりとめのない覚書 映画や読書 そして回想

大魔神   絶妙なサイズ

映画ー邦画

 「シン・ゴジラ」は、なんと100メートルらしい。それって。今までの倍?もう、キングコングとは戦えないな、とか、やっぱりランドマークが高くなると、ゴジラも高くしなくてはいけないのか、とか、情報を補充することなく、勝手に想像しているのだが。でも、怪獣映画やSF映画ではサイズの問題はけっこう響くのだ(怪獣映画好きのオジさんは、つまらないところにこだわるな、というなかれ)。

 大映の特撮映画の持つ独特の雰囲気は、今見れば決して嫌いではないのだが、「大魔神」はともかく、「ガメラ」はシリーズが進むにつれて、みるみるチープになっていくのがなんとも、もの哀しい。

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 大魔神

 数十年ぶりにDVDで見た。この映画は、リアルタイムで見ている。昭和41年の公開となっているから、私が6年生の時ということになる。確か父と見に行ったはずだが、どこの映画館だったか全く記憶にない。近くに大映の封切館はなかったから、浅草あたりだったのだろうか。「大怪獣決戦ガメラ対バルゴン」との併映で、2本とも強烈な印象が残っている。特撮映画の2本立てというのは、多分、これが初めてで随分お得感があったし、実際劇場は満員だった記憶がある。面白かったかといえば、実に面白かったのだが、東宝のゴジラ映画を見たときのような、すっきりとした一種爽快な感じはなくて、本当はまだ見てはいけない大人の映画を見てしまったような後ろめたさめいたものを子供心に感じながら映画館を出た。それは、「ガメラ対バルゴン」のせいだと思っていたが(理由はここでは書かないが)、こうやって改めて「大魔神」を見てみるとこの映画にも理由は大いにあった。

 物語は、見事なほどの勧善懲悪。正義と悪がはっきりしているのだが、大魔神が現れて悪を成敗して、めでたしめでたし、と単純にはいかない。大魔神が心やさしき神ではなく、荒ぶる神だからだ。成敗に全く慈悲はない。どこまでも追いかけて、容赦なく殺す。最後は、自らの額に打たれた杭を抜いて、悪人の体に突き刺す。ひとたび現れれば、敵も味方も、正も邪も関係なく、すべてを破壊し、妨げるものは踏み潰し、破壊する。正義の味方として単純に拍手喝采してもてはやすことのできるヒーローではない。理不尽なものを含めて、まさに神なのだ。子供だった私は、かなり戸惑ったであろう。恐怖ではなく、畏怖すべき存在というのは肌身ではわかっていても、すべてを咀嚼するのは子供にはまだまだ難しい。もっと、明朗な、痛快なおもしろさを求めて行ったのに、仄暗い中を歩いたような気になったに違いない。「ガメラ対ギャオス」は見に行ったが、大魔神の続編は見に行った記憶がないのは、今思えば、頷けることなのだろう。
 それにしても、「大魔神」のアイデアは秀逸だ。武神像を破壊しようとして、額に杭を打ち込む。すると、一筋流れ出す血の赤色の禍々しさ。顔を拭うように腕を動かすと、穏やかな埴輪の顔が青黒い憤怒の顔に一変するという意外性。そして、重々しい足音の効果音。

 何よりも、大魔神のサイズが、よく考えられている。ゴジラやガメラのサイズ(城を見下ろすようなサイズ)では、時代劇には向かない。物見櫓を見下ろすサイズ、人一人を踏み潰せるサイズ、向かってくる侍たちを蹴散らすとともに、標的となる一人を追い込んで個別に懲らしめることのできるサイズ、に大魔神が設定されていることで暴れるシーンのリアリティーを保証している。最後に、大魔神が崩れ落ちて土に還るというのもなかなか上手い。

 ただ、俳優陣はどうにも地味で、藤巻潤も青山良彦も主役の俳優としての華はない。ヒロインの高田美和は古風な顔立ちで、まあ、時代劇向きなのだろうが可憐という感じでもない。高田美和という女優は、この頃、どういう評価をされていたのだろうか。

 《監督》安田公義 《音楽》伊福部昭 《特撮》黒田義之