日付のない便り

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「聖の青春」 「ほっぺたさわってもらい」

「聖の青春」大崎善生

 11月19日公開の映画『聖の青春』の特報映像を見た。松山ケンイチが演じる夭折の天才棋士、「怪童」村山聖九段が、東出昌大演じる「天才」羽生善治四冠に対局を挑むシーンが描かれている。

 よく憑依型の俳優などと称される松山ケンイチが、過激な増量でこの役に取り組み、東出昌大は徹底した「羽生研究」であの「羽生睨み」を再現しているという。二人とも、棋譜を全て覚えて撮影に臨んだというから、その入れ込みようがわかる。

 だが、この傑作ノンフィクション小説の映画化を知ってから、私が一番気になっていたのは、村山聖の師匠、森信雄七段を誰が演じるかだ。

 

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『聖の青春』の中に、村山聖と彼の師匠森信雄が偶然出会う冬の夜の場面がある。当時、筆者大崎善生は、日本将棋連盟が発行している雑誌「将棋マガジン」の編集者だった。仕事で大阪を訪れたとき、筆者は森と一杯やって、その日森の自宅に泊まるために、一緒公園を歩いていた。その時、偶然村山と出会う。

  

 昭和62年のある寒い冬の深夜、仕事で大阪に出かけた私は、森と二人で大淀ハイツの近くの上福島北公園を歩いていた。シンフォニーホールの前にある、整然とした桜並木に囲まれた、こぢんまりとしたとても美しい公園である。居酒屋で森と一杯のみ、森の部屋に帰る途中だった。私も森も吐く息が白い、そのくらいに寒い夜だった。

 前の方から、体を斜めに傾けながら紙袋を下げ、ぽとぽと青年が歩いてきた。よく見ると、体は紙袋を持った方に傾いている。

 われわれと青年は公園のほぼ中央で出会った。

 森が飛ぶように、青年に近づいていった。

「飯、ちゃんと食うとるか?風呂入らなあかんで。爪と髪切りや、歯も時々磨き」

 機関銃のような師匠の命令が次々と飛んだ。

 髪も髭も伸び放題、風呂は入らん、歯も滅多に磨かない師匠は「手出し」と次の命令を下す。青年はおずおずと森に手を差し伸べた。その手を森はやさしくさすりはじめた。そして「まあまあやなあ」と言った。すると青年は何も言わずにもう一方を手を差し出すのだった。

 大阪の凍りつくような、真冬の夜の公園で私は息をのむような気持ちでその光景を見ていた。それは人間というよりもむしろ犬の親子のような愛情の交歓だった。理屈も教養も、無駄なものは何もない、純粋で無垢な愛情そのものの姿を見ているようだった。

「この人大崎さんや、ほっぺたさわってもらい」と森は言った。私は何のためらいもなく手を伸ばした。そのほっぺたは柔らかくそして温かかった。

「早帰って、寝や」と森が言うと「はあ」と消え入るような声で青年は呟いた。そして体を傾け、とぼとぼと一歩一歩むりやり足を差し出すようにしながら夜の帳の中へ消えていった。

            講談社 大崎善生著『聖の青春』抜粋

 

 

 人と人との運命的な絆を描いたこの場面の美しさは比類がない。

 病と闘いながら将棋に全てを注ぐ、「怪童」村山聖。村山の師匠であり、異色、異能の棋士である森信雄。二人のどこか奇妙な、だがあまりに純粋な師弟愛が描かれたこの場面に、私は感嘆した。

 映画『聖の青春』では、森信雄七段をリリー・フランキーが演じるという。その風貌からして、なるほど、とうなずかせるキャスティングである。

 

 すぐれた作品の多くがそうであるように「聖の青春」は様々な読み方ができる。大人だけではなく、小・中学生にももっと読まれてよいと思う。すでに、テレビドラマ化されたり、漫画化されたりしているが、今度の映画化で改めて、この小説が多くの人に読まれることを期待してやまない。

 

聖の青春 (講談社文庫)

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聖(さとし)(1) (ビッグコミックス)

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追記

 将棋ソフトとの戦いなど、新たな局面を迎えている将棋界にとっても、この映画は起爆剤の一つになるのではないかと思う。

 

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