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日付のない便り

日々のとりとめのない覚書 映画や読書 そして回想

薬師丸ひろ子との遭遇  「今度は愛妻家」

映画ー邦画

「今度は愛妻家」

 この映画を見たい、と思う時、私はどのような基準で決めているのだろう。以前は、あの監督の作品だから、あの人が褒めているから必ず見なくては、などと、随分肩肘張っていたが、最近は誰が出ているかで選ぶことが多い。この映画はTSUTAYAで借りて見たのだが、そういう点からすると、なぜ選んだのかちょっと不思議だ。これまで薬師丸ひろ子が出ているということで、選んだことはなかったからだ。この映画についての予備知識も全くなかったから、ジャケットかそれとも、この印象的な題名で選んだのか。

 何気なく見始めたのだが、途中から目が離せなくなった。薬師丸ひろ子である。

 

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 薬師丸ひろ子155cm、豊川悦司186cm。二人のサイズの違いが、様々な場面で彼女のアンバランスな魅力を引き出す。ベッドで眠っている豊川悦司にすり寄っていった薬師丸ひろ子が、床に吹っ飛ばされるシーンには、全く驚いた。演技とは思えぬほど、ひどく無様なのだが、その無様さがどこか愛らしい。四十歳を過ぎて「愛らしい」というのは、女優として幸せなのかどうかわからないが、この映画は、間違いなく彼女の映画だ。薬師丸ひろ子が、予期せぬ死に向かって走っていくシーンは、走り方がどこか子どもじみていて、現実離れして見えるのだが、後から思い起こすと、大袈裟に言えば、「永遠」を感じさせる。「永遠」を感じさせる映画女優など、そうそういるわけはないのだから、彼女にとって、この映画はこれまでの、いやもしかしたら生涯のベストの一つということになるかもしれない。

 薬師丸ひろ子は、デビューが1978年(『野生の証明』)だから、私はもう仕事に就いていて、頻繁に映画を見ることがない時期に入っていた。まして、角川映画ということもあって、その頃は私にとっては、積極的に見たいという気持ちにはならなかった。だから、ほとんどリアルタイムでは見ていない。 女優としても、気になる存在であったことはない。映画女優としては小柄なこと、童顔であること。そして何よりもあの声では、おそらく女優としてそう大成はしないだろうと思っていた。

 女優にとって、声の印象が及ぼすものは大きい。大女優、名女優は声だけでも観客を惹き付けて放さない。聞いただけで、誰の声かわかるというのは、もちろん発声法や演技力もあるのだろうが、持って生まれたものではないのだろうか。

 薬師丸ひろ子の声には、それがない。どこか甲高く、膨らみや響きを感じさせない。耳障りとまではいかないが、心地よさを感じさせない。こういう声で、思いつく大女優は岸惠子ぐらいで、年齢と共に光を失っていく女優なのではないかと思っていた。賞をもらった『三丁目の夕日』でも、私には年相応になったなという以上の印象はなかった。  

 だが、この映画では、その声がまったく違う魅力を持って聞こえてくる。自らの年齢を拒否しながら、いつしか年齢に認めざるをえない、納得せざるを得ない女。子どもが欲しいが、多分間に合わないということに気付いている女。もう若くない女の一時の華やぎ、焦燥、諦念。時に甘やかに、時にあっけらかんと、そして、時にやるせなく、この映画の彼女の声は、愛おしい女の表情を映していく。

 薬師丸ひろ子には、豊川悦司とのどのシーンも見ても、セクシャルなイメージに結びつかない。男にとって、いつもそばにいてほしいとは思いながら、いつも抱いていたいというふうには思わない女。「妻」になるとすべてそういうふうになるわけではないから、改めて自分は、どういう女なのだろうと問い直すことになる。このまま、空気のようになってもよい、とまでは思い切れない。頭ではわかっていても心は満たされない。だから、子どもが欲しいと思う。そういう切なさに、薬師丸ひろ子の声は、よく合っている。決してうまいとは思えないのだが、時間とともに目が離せなくなる。

 豊川悦司の好演や石橋蓮司の怪演ももちろん見ごたえがあるものだが、この映画は、私のとっては改めて薬師丸ひろ子に「遭遇」した映画ということになる。

 監督は行定勲。中谷まゆみの戯曲を映画化した作品。

 

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