日付のない便り

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初めての味  チーズ、お好み焼き、そしてコーラ

初めての味  チーズ、お好み焼き、そしてコーラ

  初めてチーズを食べたのは学校の給食だった。私が小学校の4年か5年のころだから、1964年前後ということになる。それまで、私はそれまでチーズを見たことも食べたこともなかった。配られた四角い黄色いカタマリを眺めながら、こりゃ、とんでもないものが出てきたと思った。母は、家計の割には食べるものだけはケチらなかったが何しろ田舎育ちだから、チーズを我が家の食卓に載せるなど思いもよらなかった。

 だが、不思議そうな顔をしていたのは私だけではなかったから、たぶん、そういう子どもはたくさんいたはずだ。我が家で、日常的にチーズを食べるようになったのは10年以上あとだったろう。

 

コカ・コーラ 500ml ペットボトル×24本

コカ・コーラ 500ml ペットボトル×24本

 

 

 

 

 お好み焼きを初めて食べたのもその頃だ。関西から転校してきた子の家がお好み焼き屋だった。

 私は東京の東のはずれで生活していたのだが、もんじゃ屋が学校の裏にあって、10円か20円を持って毎日のように出かけた。駄菓子もあったが、やはり主力はもんじゃで、板の間に鉄板をのせたこたつのようなテーブルがあって、そこに7~8人が並んでゴチャゴチャともんじゃを焼いた。もんじゃも今と違って、シンプルで(いっぱい10円か20円だから当然だが)入っている具はキャベツと揚げ玉ぐらい。他にきりいかや小エビ、ショウガ、ウズラの卵などを入れたりした(今でいう、トッピングだ)。

 鶏卵を入れると茶色い汁が黄色くなって、他の人のものと華やかさが違ってくる。卵を入れるのは、これは、贅沢で、私の小遣いでは、なかなか頼めなかった。もんじゃ焼屋は、銭湯と並ぶ、子どもたちの最大の社交場だった。

 だから、友達のお好み焼き屋にいって、ごちそうになったときはびっくりした。汁は白いし、もんじゃのようにゆるくないから流れていかないし、具はいっぱい入っているし、ひっくり返すし。おいしかったが、やっぱり、なんだ、こりゃという驚きがあった。お好み焼きが、今のように縁日やお祭りでの定番のようになったりしたのも、やはりずいぶん後のことだ。

 

 もっとも衝撃的なのはコーラとの出会いだ。小学校の5年生の頃、Kというクラスメートがいた。このKの家は銭湯だった。Kの家は銭湯だけではなくて、ゴルフ練習場を開いていた。東京二十三区内とはいえ、この頃は、まだ田圃も畑も至る所にあったし、ゴルフをやっている人を私は周りに見たことがなかった。Kの家は、父親が新しもの好きだったのか、銭湯も入り口が2階にある、その頃はまだ珍しい鉄筋作りの銭湯だった。気さくだったしよい意味で息子を甘やかしている感じだった。Kのところにいくと、あまり見たことがないようなおもちゃがあったりして、遊びに行くのが楽しみな家だった。

 ある時、Kがと父親にゴルフをやりたいと言い出して、それじゃ、球拾いをしてこい、そうしたらやらせてあげる、という話になった。Kと私、もう一人の友だちの3人で、せっせと球拾いをして、約束通り、一箱ずつ打つことになった。私は、ゴルフというものを見たことがなかったし、Kの父親がKに教えるのを見ながら、見よう見まねでクラブを振った。そもそも、私は運動神経ゼロだから結果は推して知るべしだったが、楽しいことは楽しかった。私は、ゴルフはやらないので、これが初めてのゴルフで、今のところ最後のゴルフということになる。

 このゴルフ遊びが終わったとき、Kがこれ飲んだことがないだろう、といって見たことのない不思議な形の瓶を持ってきた。コーラっていうんだ。飲んでみろよ。栓を抜かれた黒い飲み物に私たちは戸惑った。恐る恐る口をつけた。強烈な炭酸の刺激、そして今までに味わったことのない、表現しようのない不思議な味。これがコーラを初めて飲んだ時の思い出になる。

 その頃、炭酸飲料といえばサイダーかラムネで、それだって、そうそう頻繁に飲んでいたわけではない。友達の家に行って、ヴァヤリースとかカルピスがでてくると、ずいぶん上品な印象を持ったものだ。自動販売機なんてまだなかったし、このコーラっていうのはどこで売っているんだろうと思ったりした。

 ウィキペディアでコーラのことを調べてみると、1914年に高村光太郎詩集『道程』収録の『狂者の詩』の中に「コカコオラ」が登場、1919年に明治屋の広告雑誌『嗜好』にコカ・コーラの広告掲載、などとあるから、知っている人は古くから知っていたのだろう。「スカッと さわやか コカ・コーラ」のコピー登場が1962年となっている。

 だが、私の周りでは、コーラはまだ、見たことのがない、衝撃的な飲み物だった。

 1964年(昭和39年)は、東京オリンピックの年だった。急速な高度経済成長期の真っ只中であった。工場労働者であった父が、仕事が忙しくなって、1週間おきに昼勤、夜勤を繰り返すシフトで働くようになったのは、これより2、3年あとになろうか。食べ物の話をしたが、食べ物に限らず、あの頃は、あらゆるものが一時に(例えば関西もアメリカも)、急速に生活の中に入ってきた時代だった。まだ、それに翻弄されるまでには間があったが。

 

オオイ金属 本蓚酸アルマイト 16.8×11.0×4.5cm

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追記

 もちろん、食通とかグルメなどという人は、少なくとも私の周りにはいなかった。給料日の前になると、急におかずが質素になるようなことはあったが、飯だけはとにかくたらふく食べさしてもらった。おかずなんかなくても、ご飯だけあれば満足だった。中学になると、毎日アルマイトの弁当箱にたっぷり飯を詰めて学校に通った。周りを見回すと、大体みんな同じような弁当箱でガツガツとたらふく食べていた。

 あの大きな弁当箱を思い浮かべてみると、美味しいものも珍しいものも、大してなかったが、今よりも少し幸せな時代だったような気がするが、これも年寄りの思い過ごしだろうか。

 

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