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『フランケンシュタイン対地底怪獣』&『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』

『フランケンシュタイン対地底怪獣』

 何年か前に東宝特撮映画DVDコレクションを揃えたのだが、集めるだけ集めてあまり見ていなかった。この連休で少し時間があったので、何か見てみようと思って、散々迷ってこの映画を選んだ。子どもの頃、この映画を見た記憶ははっきりとあるのだが、実はストーリーは、あまり詳しくは覚えてはいない。ただ、とにかく怖かった記憶がある。

 

 

 

 夏休みと正月に東宝の怪獣映画を見に行くのは、小学校の頃の楽しみの一つだったが、それまでの怪獣映画というのは、例えば『キングコング対ゴジラ』や『モスラ対ゴジラ』のように、怖さはあるものの、要はどちらが強いのか、という子どもらしい興味に惹かれてワクワクしながら見ていることができた。『三大怪獣地球最大の決戦』になると、これはもうプロレスのタッグマッチかバトルロイヤルのようなもので、特に究極の悪役、キングギドラの登場に随分興奮したものだ。見終わって、ああ面白かった、と晴れ晴れした気分で映画館をでることができた。  

 ところが、この『フランケンシュタイン対地底怪獣』は何か損したような気分になったのを覚えている。これって『マタンゴ』みたいだな、と思ったからだ。私は意気地がなくて、今でもホラーものは苦手だが、『マタンゴ』には参った。下を向いて画面が見られなかったほど怯えた。だからこの映画も怪獣映画というより怪奇映画として記憶に残っているのだ。 今回、見直してみて、子どもの時の記憶というのは、結構的を得ているものだと思った。

 映画は、終戦間近のドイツから始まる。研究室にナチスが訪れ、フランケンシュタインの心臓を奪い取る。Uボートで運ばれた「心臓」は、日本の潜水艦に引き渡され、広島の研究室に到着する。死なない兵士を作る研究のために日本に送られたが、原爆の投下によりすべてが忘れ去られる(この辺りは、なかなか重厚で、志村喬や土屋嘉男がでている)。15年後、犬や猫まで食べてしまう浮浪児が現れる。まるで獣のようだが、その一方で、音楽に興味を持ったり、ネックレスを欲しがったり、人間的な側面も見せる。 破壊された細胞組織の再生を研究しているボーエン博士(ニック・アダムス)と同僚の川地(高島忠夫)、戸山李子(水野久美)の三人は、放射能に強く、白人であるこの少年を保護するが、少年はみるみる巨大化していく。

 一方、秋田の油田では地震が起きる。地底怪獣の仕業であるのだが誰もそれに気づかない。 そこで技師として働く元海軍大尉河井(土屋嘉男)は、終戦直前にドイツの潜水艦からフランケンシュタインの心臓をひきとって、広島へ届けたと語る。フランケンシュタインの心臓とは、蛋白質の補給さえあれば、活発な細胞活動により身体がなくなっても復元するというものだった。

 このあと、少年はますます巨大化し、逃げ出すのだが、鎖でちぎられた手首が生きていたり、家畜が食いらされたり、と怪奇趣味満載だ。また、バラゴンによって人間も各地で行方不明になるのだが(それまでの怪獣と違って、バラゴンは人間を食らう!)、バラゴンが地底怪獣であるがために、地下を移動することや夜行性であることから、その存在がなかなか認識されないので、それもフランケンシュタインによるものとされてしまう。

 このあたりまでは、ストーリーは快調なのだが、このあと、物語の設定の根本的な無理や不備から、首をかしげることが多くなる。

 まず、フランケンシュタインが不死であるのはよいにしても、なぜ巨大化するのかわからない。大きくなったのに、同じ服を着ていられるのもおかしいといてばおかしい(それを言っちゃおしまいだよ、言われそうだが)。

 3人の科学者の立ち位置も中途半端で、水野久美は母親的な感情を持つが、フランケンシュタインをかばいきるほどの覚悟はない。高島忠夫は、フランケンシュタインを殺そうとするが、そのわりには、暗さも狂気も足りない。ニック・アダムスは、フランケンシュタインを研究のために擁護する立場だが常識人すぎる。登場人物の性格付けが半端なので、人間の身勝手さや人造人間の哀しさみたいなものはどうしても薄まってしまって、見ていてもどかしいシーンも多い。  

 フランケンシュタインは人造人間だから、怪獣のように武器を跳ね返すということも無理があり、その辺はうまくはぐらかされているのだが、それでもバラゴンが吐く炎があたると、やっぱり熱いだろうなと妙に心配してしまう。

  地底怪獣バラゴンは、中世代の大爬虫類が地球の表面が寒くなったため寒さをのがれて地底にもぐり、子孫を残して来た、という設定なのだが、なぜ、今現れたのかということやなぜ富士山麓に向かったのかということとなど、出てくる必然性が乏しい。また人間や家畜を食べるから肉食で、そうするとこれまではどうしていたのだろうということになり、これも首をひねりたくなる(これも、それを言っちゃおしまいだよ、ということになるのかもしれないが)。それに四足歩行の怪獣というのはどうも動きが不自然で、これなら『ゴジラの逆襲』のアンギラスの方がまだよくできている気がする。  

 戦いのシーンは、人間対怪獣ということで、なかなか新鮮で、特にフランケンシュタインは怪獣のように動きに制限がないことから自由度が高い。ただ、フランケンシュタインの持っている不死という特徴は、戦いの中で生かされていない。フランケンシュタインの最期についても、曖昧なまま終わることが、かえって余韻があって、しかもどのようにでも続編がつくれる余地も残してあるのがよくわかる。見ていて、そういえば子どもの頃、何かフランケンシュタインの最期が可哀想に思えた記憶があり、それが、怖くてまいったなと思いながらも、続編『サンダ対ガイラ』を結局は見に行った理由だったのかもしれない。

 味の薄い面もあるが、独特の暗さをもった画面も魅力的で、怪獣映画としては異色の力作である。

『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』

 続編「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」は、前作を見た後だと、なんだこれは、という感じの出来だ。

 

 

 これも、子どもの頃、リアルタイムで観たが、サンダもガイラも不気味だったが、結局、人間にしか見えなくて、なんかつまらないな、と思った記憶がある。これは、多分、さっぱり感情移入ができなかったからではないかと思う。放射能はすっ飛んで何処かに行ってしまっているし、永遠に生きるものの哀しみも伝わってこない(というか、最初からそういうものは意図していない)。

前作でバラゴンと戦って富士山麓の地底に沈んだフランケシュタインの怪獣が、残った細胞から二体に分かれて復活するのが、のこの続編である。海のフランケンシュタインがガイラ、山のフランケンシュタインがサンダで、まあ、兄弟ということになるのだろうが、海彦山彦の神話を下敷きにしているというのはすぐにわかる。『フランケンシュタイン対地底怪獣』の時は、フランケンシュタインは、あの人造人間の造形を生かしていて、頭でっかちで怪奇映画風の姿をしていたが、「サンダ対ガイラ」では、どちらもよく表情がわからない毛むくじゃらの雪男風の姿である。これじゃ、感情移入のしようがない。前作では、水野久美が「坊や」と呼んでいたが、もう「坊や」と呼べる姿ではない。

 善玉サンダと悪玉ガイラの戦いは、これはもう怪獣というより人間同士の戦いで、面白くなりようがない。ドラマ部分も、今見ると、結構退屈で、俳優も前作に続いての水野久美はよいにしても、ラス・タンブリンは何のために出ているのかよくわからない感じの印象の薄さだ。ターゲットが大人なのか、子どもなのかも中途半端だ。駄作とまではいわないが、今見て面白さを感じる作品ではない。

 この頃から、東宝の怪獣映画はすっかり子ども向けというか、子供だまし的になっていったのだが、ちょうど私も中学生になっていった頃で、ぼつぼつ怪獣映画から卒業していくことになった。私が映画館で見た怪獣映画は『怪獣総進撃』(1968年8月1日公開)が最後だと思う。

『フランケンシュタイン対地底怪獣』  1965年公開

『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』 1966年公開

《監督》 (本編)本多猪四郎  (特撮)円谷英二

 

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