日付のない便り

日々のとりとめのない覚書 映画や読書 そして回想

我が家の花見

 ようやく花が散りはじめた。土日に雨が降って、今年の桜はもう終わりだと思っていたから、何日か得したような気分だが、節目節目に雨が降ったことで、我が家では今年の花見は諦めることになった。

 花見といっても、ここ数年は、妻が運転する車に乗って近所の桜並木の下をドライブするのが、我が家の花見だ。今年92歳になる父は、2年ほど前から肺気腫を患って、入退院を繰り返しており、在宅酸素が欠かせない。出かける時は、傍にボンベを置いて、トランクに車椅子を積んでということになる。父は、格段、花にこだわりを持っているわけではないが、今は医者に行く以外は外に出られないので、花を見れば、やはりどこか感慨深げではある。

 

 母は3年前に亡くなったが、母が生きている時は、父はまだ元気に歩けており、母の乗る車椅子を押したりもしていた。母は、晩年、認知症になり、自宅での3年半の介護の後、足腰も不自由になったので、近くの施設で5年半過ごした。

 自宅で介護をしている頃は、足腰はおぼつかなかったが、人の顔は認識でしたし、時折トンチンカンなことはいうが、まだ会話もできた。デイサービスや介護ヘルパーの助けを借りながら、介護を続けたが、息子もまだ幼く、介護は大変だった。それでも、花が咲くと待ちかねたように、妻は母を連れ出した。近くの青戸公団の桜や、立石の区役所通りの桜は、車椅子を押して花見をするには手頃で豪華だった(私の家は東京の葛飾区にある)。満開の桜の下を飛び回っている幼い息子と、同じくらい幼くなって、それでも楽しげに笑ったり、わけのわからないようなことを言っている母を連れての花見が、その頃の我が家の花見だった。

f:id:kssa8008:20170413224455p:plain

 元気だった父が足を痛めて入院をし、幼い子どもを抱える中年を過ぎた共稼ぎの夫婦では、もはや家で介護をすることは無理になった。ケアマネージャーにも、かかりつけの医者にも共倒れになる前に決断することを勧められた。認知症は切ない病気だが、このままだともっと切なくなると言われて、決断せざるを得なかった。

 母の入った施設は、自宅から歩いて10分ほどのところだから、頻繁に会いに行けたのだが、母は最後は話もできなくなり、父のことも私のこともわからなくなった。施設はデイサービスなども兼ねていて、季節ごとに多くの行事があった。すぐ近くに、見事な桜並木のある親水公園があって、花見の頃となると、職員が、順番に入所者を、手を引いたり、車椅子に乗せたりして、桜の下まで連れて行ってくれた(施設の掲示板にはたくさん写真が貼られていた)。家族なら、それ以外にも許可を取って連れ出すことができたから、我が家では、父と私と妻と、小学生の息子と4人で、交代で車椅子を押しながら、親水公園に出かけた。施設に入所して、2年目ぐらいから、母は無表情なことが多くなっていたが、満開の桜の下に来ると、なにもかもわかっているような、まぶしそうな顔をする。車椅子の母を真ん中にして、満開の桜をバックに、かわるがわる写真を撮って、ひと時を過ごす。それがあの頃の我が家の花見だった。

 

 そんな具合で、今年、中学3年生になる息子には、花の下に敷物を敷いてご馳走を食べるというような花見は記憶にないだろう。だが、実は母が発病する前に、一度、経験しているのだ。

 場所は区内の水元公園。どんな経緯で花見をしたのかはもう覚えていない。集まったのは、私と妻、私の両親、妻の両親、妻の妹夫婦、妻の妹の連れ合いの両親。穏やかな春らしい日で、ちらほらと花びらが散る中、六人のジジババと二組の中年夫婦の間を、まだ2歳かそこらの息子が駆けずり回っていた。写真は残っているが、妻も私も近頃はアルバムを見ることも少なくなって、どこか遠い夢のような感じがする。今に夢中な中学生の息子にとっては、なおさらではないかと思う。だが、だれもが、アルバムを見直す時期が来るわけだから、いつか息子も、だれもが元気で幸せだったあの花見の記憶を呼び起こすことがあるかもしれない。

 

 とはいえ、「だれもが元気で幸せな」ことなど、一瞬のことであるのは、当然のことであるから、車椅子の花見もドライブの花見も、それはそれで大事な「我が家の花見」なのだろう。そう、考えてみれば、今年は、花の雨を少し恨めしくも思うのである。

 

※写真は、今日の朝の葛飾区役所通り

 

kssa8008.hatenablog.com