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日付のない便り

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半村良「小説 浅草案内」を読む 浅草は近いような、遠いような

 

 半村良の「小説 浅草案内」を読み終わった。先月、馬券を買いに行った帰りに錦糸町の熊沢書店で買い求めたものだ。以前に、図書館で借りて、最初の2篇ばかりを読んで、なんとなくそのあとを読みそびれて返却してしまったのだが、先月、三遊亭円歌の訃報が流れた時に、父が、そういえば円鏡も死んだんだっけ、とつぶやいたので、この本のことを思い出した。円鏡、8代目橘家圓蔵である。円鏡時代は、テレビに出ずっぱりの人気落語家だったので、前名の月の家円鏡の方が馴染みが深い。その橘家圓蔵と半村良が同級生だったということが、この作品の最初に出てくるのである。

 

小説 浅草案内 (ちくま文庫)

小説 浅草案内 (ちくま文庫)

 

 

 

 小説は半村良が3年ほど住んだ北海道から浅草に転居してくるところから始まる。橘家圓蔵だけではなく、清水義範とか、高校の同級生だった何人かの政治家などが実名で出てくる。本人も本名だし、実在の店舗や企業も出てくるから、読んでいると登場人物も全て実在するように思えてくるが、そこは「小説」だから、虚実織り交ぜたものなのだろう。身の回りに起こったことを何か無造作に書いているようだが、読み進むにつれて、其処此処に手練の技が光る。本の帯に「人情小説の傑作」とあるのもうなずける。

 半村良がこの作品に込めた浅草への思いや憧れには、わかる部分も多いのだが、それでいながら距離もまた感じるのはなぜだろうか。

 

 半村良は葛飾区の生まれだが、私も生まれは墨田区だが、育ちは葛飾区で今も在住してる。実は、高校も同窓で半村良は20年ぐらい先輩になる。そう書くと、東京の下町生まれ下町育ちということになるが、私にはそういう意識はあまりない。葛飾区は、「男はつらいよ」のシリーズや「葛飾区亀有公園前派出所」で、代表的な下町のように思われていることが多いが、私が子どもの頃は、周りは田んぼと畑と原っぱでだったし、この小説に出てくるような下町風景はなかった。私の両親はともに東北の出身で、結婚して職を求めて上京、住み着いたわけで、生活にも都会人的な部分はなかった。近所を見回しても、友達の家にしても、田舎を持つ家の方が圧倒的多かったと思う。父は工場労働者で墨田区や千葉県船橋に通勤していた。酒は飲むが、外で飲むのは嫌いで、晩酌だけだった。家族で食事に行くというようなこともあまりなかったし、店屋物を頼むこともあまりなかった。たまに、1年に何回か松坂屋や松屋の食堂で食べることはかなり重要なイベントだった。

 だから、浅草は家族で遊びに行く場所で、それ以上のものを求めたことはなかった。

 高校はその頃悪名高き学校群制度の入試で、3校のうちの1校に抽選で入ったようなものだったが、墨田区や江東区出身の同級生は、意識も学力も、生活感覚も随分違っていて、都会っ子に見えた。総じて葛飾区や江戸川区出身者は垢抜けない存在だった。

 大学に行っても、就職してからも、自分が都会っ子であるとか、下町育ちであるとかを特に意識することもなかった。

 だから、この小説に出てくる浅草という町の伝統や息遣い、そこに住む人々の哀歓に共鳴しながらも、ある意味洗練された会話や生活、互いにさりげなく気遣う人間関係などは、自分なら少し重たく感じられて、この小説のようにはとてもいかないだろうなと思う。

 実のところ、東京に生まれ、育っても、私は自分をどこに分類できるのか、この歳になってもよく分からない。

 

 文庫の解説はいとうせいこうが書いている。この人も葛飾区の生まれで、浅草に20年以上も住んだのだという。この人の作品は読んだことがないのだが、この解説はちょっとうならせるところがある。少し引用してみよう。

 

 私は柴又の隣町で育ったから本当に仲良くなった浅草の人たちには「ああ、在か」と鼻で笑われる。半村さんも生まれは下町ながらわずかに中心と外れた場所で過ごしたようだ。つまり私たちはともに下町の雰囲気は濃厚に知っていながらも「根なし草」で、おそらくだからこそ浅草により強く魅入られる。そこは江戸の昔から根なし草の生きる力を吸い込んで光り輝いてきた場所だからであり、三代以上そこに住む生粋の浅草人ならばこそ特にその「よそ者」の潜在能力を知っているのだと私は思う。

 しかしもちろん、もし「根なし草」が浅草にぞっこん惚れ、長く住み、いかにも浅草の人のようになってしまえば事情は変わる。紛れもない浅草人にとってはしょせん「根なし草」は「根なし草」であって、そうでなければ彼らに愛されることはないはずなのだ。だがだからといって、「根なし草」は浅草を憎むことは出来ない。自分の能力を最も見事に引き出してくれるのもまた浅草だから。

 

 

 いとうは、この愛憎のジレンマの中を、半村は生きたのだという。優れた理解、分析だと思う。これは、いとうも浅草に住み、半村と同じようなジレンマの中に暮らしたからであろう。

 

 ここ数年、浅草には月に何回か出かける(馬券購入のためだが)。この作品が1988年の出版だから、ここに書かれている浅草から、すでに四半世紀過ぎていることになる。午前中に行くと、観音様も仲見世も、外国人で賑わっている。六区の古い映画館も取り壊され、シネコンが建設されるらしい。大きなドン・キホーテがたったり、「まるごと日本」のような新しい商業施設も目につくようになった。

 浅草が、昔より近いのか、遠いのか、私にはよく分からない。この小説に描かれている浅草は決してなくならないだろうが、私のように自分の居場所が分からない人はもっと増えていて、さらに見えづらくなっていくのではないだろうか。

 

この先、この作品のような人情小説が色褪せなければよいと思うのだが。

 

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