日付のない便り

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図書館の憂鬱        

 

  久しぶりに、区立の中央図書館に行った。バスか電車を使えば30分ぐらいだが、それでも実際に出かけるとなると億劫で、早々頻繁には通えない。歩いて5分ぐらいのところに地域の図書館があるから、普段はそこを利用しているし、区内の図書館の蔵書はネットで予約をして、そこで受け取れるから、取り立てて中央図書館に行く必要はないのだが、それでも一月に一度か二度は出向きたくなる。地域の図書館も長年通っているから愛着があるのだが、最近、書架の間を巡っていると少し憂鬱になってくるからだ。

 

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 図書館の書架の間をぶらぶらと巡って歩くのは、私の長年の楽しみの一つであった。今でも、特に目当ての本があるわけでもなく、目についた本を手にとって立ち読みをしたり、すっかりご無沙汰している詩歌や歴史の棚に手を伸ばしたり、どうせ挫折するのに古典や哲学の棚に目を向けたり、というのは図書館に行く一つの目的になっている。

 中学生になって、それまでの児童図書室から一般図書の書架に入った時のことは今も忘れられない。世の中には、こんなにたくさんのいかめしい本があって、その気になれば、自分のものにできるのだと思うことは、周りに読書の導き手を持たない少年にとっては、新鮮な驚きだった。その頃の書架は天井近くまで丈があって、照明はあっても書架の間は、少し薄暗かった。その穴蔵のようにひっそりとした書架の谷間で、手にした本をそこで立ったまま読みふけるということが、私の密かな愉しみになった。残念ながら、大学に入るまで、私はともに読書を語り合うという友人を持てなかった。だから、この密かな愉しみは、随分気恥ずかしく、なるべく誰にも悟られないようにしていた。

 テスト前とか夏休みとか、中学、高校、浪人(!)と何年にもわたって、図書館に通ったが、勉強の息抜きに書架をぶらついて、手に取った本についつい夢中になって、後悔するということがよくあった。

 

 私が、今も愛読している作家や詩人の幾人かは、この書架の谷間の延長上にあるものだ。田宮虎彦は黄色とうぐいす色の表紙の新潮社版の日本文学全集で読み始めた。中山義秀の「栄耀」に遭遇(!)したのは青い表紙の中央公論社版の全集。中井英夫の「黒衣の短歌史」は、わけのわからないままに夢中になって読んだ(「虚無への供物」より、こっちが早かった)。土橋治重の不思議なテイストの詩集を首をひねりながら読んだのも書架の谷間だ。私はひどく奥手だったが、その割に丹羽文雄の「顔」「日日の背信」や舟橋聖一の「ある女の遠景」なども何日もかけて書架で読んでいた。密かにといえば、これは本当に密かにだが、バートン版の「千夜一夜物語」を少し興奮しながら読んだりした。藤島泰輔の「ヘソまがり太平記」は、今はもう手に入らないが、抑えるのが困るほど笑わされた記憶がある。

 

黒衣の短歌史 - 中井英夫全集 第10巻 (創元ライブラリ)

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 図書館は設備が良くなって、書架も低めのものが増え、書架に「谷間」はなくなった。書架の角に座って読むための椅子やソファが設置されて、より開放的な造りになっている。だから、書架巡りは、十分快適なはずなのだがここ何年か、思わぬ事実に直面して、戸惑うことになった。

 どうやら、私の寿命より本の寿命の方が短いらしい、ということに気づいたのだ。私の巡る棚に、かつて慣れ親しんだ本が見当たらない。読みたいと思う本は、書庫から出してもらうことが増えた。

 吉行淳之介も遠藤周作も、安岡章太郎、阿川弘之、北杜夫、あるいは、司馬遼太郎や新田次郎、井上靖、松本清張なども、書架にはパラパラと単行本があって、あとは全集があったりなかったり。

 一方で、私が名前ぐらいしか知らない作家の本が、ボリュームたっぷりに並べられている。

 松本清張や司馬遼太郎が亡くなったのは、1990年代だからまだ四半世紀というところか。今でも、映像化される作品の多い大人気作家だったが、それでも図書館での本の寿命は思うほど長くないのか。書架の一角を独占していたかつての面影はない。 

 図書館の本は消耗品だから、古くなれば、自然と処分されて行って、少なくなっていくのだろうが、この作家の作品が、この本が、こんな小さなスペースに追いやられているのだ、と知るにつれて、どうにも物悲しくなってくる。書架は作家の名前のプレートで仕切られているが、どんどん読んだことのない作家の名前が増えていく。著作権は50年だったか。人の寿命は長くなっているが、本の寿命はどうなのだろうか。先々が数えられるような年齢になって見ると、そんな些細なことでも憂鬱の種になるのである。

 

 中央図書館は50万冊規模なので、まず私程度の者が不満を持つような書架ではないし、ここに来れば書架巡りもかつてのようにそれなりに楽しいし、憂鬱になることは少ない(ただし、体力の衰えで長くはできないが)。 

 書架の角にある椅子には、一心不乱に本を読んでいる若者が座っているのも見かける。その若さやエネルギーに幾分羨ましさを感じながら、彼らの手にしている本の寿命は、もしかしたら、私の時よりさらに短いのではなかろうかと思ったりする。

 

 月に1回か2回の書架巡り、これもいつまで続けられることか。

 

※ どこの図書館にも、YA(ヤングアダルト)図書のコーナーがあるが、あれは役に立っているのだろうか。若者の本離れ対策なのだろうが、そもそも若者はちょっと背伸びをした本も選ぶのではないか。その書架の前に立つのが気恥ずかしくて、ちょっと困ることがある。実は、私もけっこうYA図書の棚から借りてくるのだ。若者向けと言いながら、書架に並んでいる本は良書が多い。集めた方が良いのか、散らして配架した方が良いのか。

 

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