日付のない便り

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加地伸行「マスコミ偽善者列伝 建て前を言いつのる人々」(飛鳥新社)を読む   バッサバッサと切れ味鋭く……

 こういう斬られ方をすると、当事者は心身ともにかなりこたえるだろうな、と読みながらなんども思った。

 著者は、大阪大名誉教授、加地伸行(82歳)。本書は産経新聞連載のコラム「古典個展(こてんこてん)」等をまとめたものである。著者の専門は中国古典で、略歴を見ると儒教関係の著作が多い。保守派の論客でもあるらしい(初めて読む著者なので、ネットでちょこっと調べるとそんな感じだ)。

 

マスコミ偽善者列伝 建て前を言いつのる人々

マスコミ偽善者列伝 建て前を言いつのる人々

 

 

 

 本屋にいったら平積みしてあったので、なんとなく購入した。パラパラめくってみると各編の最後は必ず中国の古典からの引用した一節が添えられている。そこに惹かれたのもある(この部分は、私には手に負えないものも多かったが)。

 書名は、何か安っぽいのだが、中身はなかなか読み応えがある。

 80歳を超えて、研究からは引退、でも、愚論を見たり聞いたりすると批判精神がムクムクと起こってくる、ということで、内容はなかなか戦闘的だ。政治、経済、宗教、教育など広範囲に渡っている。取り上げられた人物や組織はすべて実名。

 文章は平易で論理的。寄らば斬るぞ、というより、自分から寄って行って、問答無用にバッタバッタとなで斬りする感じで小気味いい。

 なるほどと思うものもあるし、それはちょっと無理、というものもあるが、漢籍を中心とした学識を駆使した「悪口雑言」は、かなりのパンチ力だし、切り口が意表をついていて(著者は意表をついている、とは思っていないだろうが)、納得するものも多い。

 私は、左翼的な考え方、共産主義的な考え方には嫌悪感を抱いている者だが、保守派の雑誌や書籍を読むと、迎合的、御都合主義的な論説も多く、何を読んでも同工異曲の感があって、最近はあまり読まなくなった。実証的であろう、論理的であろう、と目指すゆえか、むやみに衒学的であったり、煩瑣であったするものも目につく。そういうものと比べれば、この著者の「悪口雑言」には品格がある。

 

 内容は多岐にわたっているので、全てに触れることはできないが、その斬り方の例を一つ挙げてみよう(私は教育公務員だったので、教育の分野であれば、私でも少しは判断ができる)。

 英語会話を初等教育に取りこもうとしているが、そんなことよりも、日本人がこの日本列島において生きるとき、四季を貫ぬく心構えを教え、例えば自然への感謝 怖と敬意とを身につけさせることが教育の在るべき姿ではないのか。ことばを進めて言えば、英語会話教育よりも、広い意味での道徳教育のほうが必要なのである。 

 と言えば、必ず日教組の連中が道徳教育反対と叫ぶ。価値観は多様であり、押しつけてはならないと。

 愚かな話である。彼らは道徳の意味が分っていない。

  道徳には絶対的道徳・相対的道徳・修養道徳の三種があるが、それら道徳の中心となっているものは、古今東西を問わず、人の世で必ず心がけねばならない在りかたすなわち絶対的道徳である。例えば、借りたものは必ず返す、約束は守る、不要なゴミはその辺に捨 てない......といった日常道徳に始まり、公共道徳に至る。

 この道徳教育と一般教科教育との二つがそろって教育が成り立つ。さらに、相対的道徳 すなわち価値観によって変わるもの、例えば白より赤がいいという考えかた、感じかたに ついて議論するのも重要。相対的道徳の場合、どちらか一つがいいと押しつけて教えるわけではない。なお、修養道徳は個人が信奉する道徳(例えば親切)を磨いてゆくことであり、 個人の心構えのもの。

 梅雨は相対的に考えることによって、その意味を明らかにし、片よった教育を反省させ てくれる慈雨だ。

 古人曰く、往きて雨に遇えばこれ吉、と。『易』 睽掛

 第1章「教育」⎯⎯日教組と道徳教育と………梅雨に感謝する意味 より

 

 唸ってしまった。これは分かりやすい。現役の時に読んでおきたいと思った。

 私は校内暴力の吹き荒れる中学校で、長い間、悪戦苦闘してきたが、学校が再生するには、ここで述べられている絶対的道徳が学校全体に浸透することが欠かせなかった。

 シャツの裾をズボンに入れる、ボタンを嵌める、名札をつける。靴のカカトを踏まない、机を真っ直ぐに並べる、ゴミが落ちていたら拾う、チャイムとともに動く、呼ばれたらきちんと返事をする、大きな声で挨拶をする、等々。

 当時は、こんなことを身につけさせるのに何年もかかった。当たり前のことを当たり前にできるようにすると学校が変わった。

 道徳教育が学校に欠かせないことは、実は現場ではさほど異論はないであろう。いまのような形で授業することの是非はおいて。

 実際に道徳の授業を行うに当たっては、絶対的道徳と相対的道徳をどのように配分して、どのような発達段階に即して行うかなど、まだまだ難しい実践的な課題もあろうが、名指しされた日教組はどう反論するのだろうか。聞いて見たい気がする。

 

 本の帯に「本書で論評されている方々(敬称略)」で、以下の名前が並べられている。

 池上彰・小池百合子・島田雅彦・澤地久枝・なかにし礼・寺島実郎・長谷部恭男・浜矩子・トマ ピケティ・福島瑞穂・前川喜平・山口二郎・鳩山由紀夫・海江田万里・山崎正和・立憲民主党ほか

 

 著者は、自分の立場を保守派と位置付けているが、論評の相手は、左右にあまり関係ない。要は、彼が愚論と思えば、ばっさばっさ、ということになるのである。

 海江田万里には自作の漢詩の語句の誤用を指摘する。前川喜平には「座右の銘」「面従腹背」の使い方がなってないことを捉えて、悪業がモットーかと皮肉っている。鳩山由紀夫は無能の皇帝、新の王莽に例えて批判する。小池百合子には東京、大阪の知事の協力体制を「二都物語」と表現したことをとらえて、ディケンズの『二都物語」は、男性主人公が、愛する女性の身代わりになってギロチンで首を落す自己犠牲の物語でふさわしくないと指摘する。

 

 こんな具合に、広範な学識を基盤に批判されていくと、反論しづらいのか。クレームを受けたことはないそうである。

 

 「終章 老生の立場について」では、著者の学説の一つを底に敷いての講演が掲載されている。平成十四年十一月九日、関西大学法学研究所の第二十五回現代セミナーにおいて、「文明の衝突から対話へ⎯⎯アジアの宗教から考える」のテーマのもとに行った「なぜ一神教を理解するのは難しいか」という講演である。

 著者は、今後百年残る独自の学説が二点あると自負している。コラムとは装いを変えて、堂々たる一編で面白く読んだ。儒教について、認識を新たにした。学術書はとても無理なので、同じ著者が出している新書は読んでみようと思う。

次の記事も、よろしければどうぞ。

 

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